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礼記『学記篇』 「おいしそうなごちそうがあっても、食わなければうまいことがわからない。すぐれた教えがあっても、学ばなければそのよさはわからない。だから我々は実際に学んではじめて、自分の智慮の足りないことがわかるし、教えてみてはじめて、自分の学問が十分でないから、人に教える難しさを知って苦しむのである。自分が愚かであることを知って後に、我々は自分を反省して勉学への意欲をもりあげていくことができる。人に教えることがどんなに難しいことかがわかって後に、努力して勉学につとめるようになる。だからこういう言葉がある。教えることも学ぶことも両方ともに智慮はのびるものだと。また『尚書』の兌命には次のような言葉が見える。教えると言うことは、その半分は学ぶということを意味しているのだと。それはこのことを言ったものであろうか。」 「大学の教授の法に四つの基本がある。 その一は、学生の悪習をまだいたらぬ状態で禁ずることで、これを『予』という。 二は、学生が真に知る意欲を高めた時期をとらえてこれに告げ教えることで、これを『時』という。三は、学生の思考力の程度をよく考えて、その年令に違わず、その理解の度あいにしたがって教えていくことで、これを『孫』という。 四は、教授者が直接あたるのではなく、学生同士がおたがいの言行を観て、善いものを自分のものとし、悪いものを反省して改めていくようにさせてやる。このような機会を与えてやることを、これを『摩』という。この四つのことが教育を支える基本的な事柄である。」 礼記『学記篇』 「学生の悪習が身についてしまってからそれを禁ずるときは、教えがその悪い欲をしのぐことができず、教えの力のいりこむすきまもなくなる。学ぶ意欲を高めた時を逸してしまうと、二倍三倍の努力をしても教えることの内容は身につきにくい。程度の差を考えることもなく教えようとすると、才能の高いものはそれをのばすことはできず、低いものはとてもついてゆけないことになり、教育の効果はなくなってしまう。たがいにはげまし合う学友がなくて学ぶときは、自分だけのせまい考えに陥り、聞くこともすくなく、学問の進歩はなくなってしまう。言行ともに正しくない友と交わると、先生の教えを素直な気持ちでとりいれることができなくなるし、学問の核心にふれないつまらぬ雑談は、学ぶことへの関心をそぐことになる。以上の六つのことは教育の効果を減ずるもとになるものである。 教育に一番必要なものは意欲であろう。これに教える者のよさが調和したときにはじめて効果は期待されるものとなろう。教育者の任務は、いかに学ぶものたちの意欲をもりあげていくか、チャンスをどうとらえるかという点にあるのであろう。」 教えるにも学びにもそれぞれに時期があり、その時期を外すと教育問題が困難となる。だから、家庭・小・中・高・大学とそれぞれの時期においてそれぞれの教育をしておかないといけない。 |
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